2007年12月9日日曜日

雑文・資料

■■ Japan On the Globe(425)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

人物探訪: 白川静 ~ 世界をリードする漢字研究者

白川静のような碩学を持つ日本こそが、東洋文化
の最終リレー走者としての使命を持つ。
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■1.思う、念(おも)う、懐(おも)う■

 漢字研究の第一人者、白川静の世界を覗いてみるには、次の
言葉が良いだろう。

 今、日本語がもう一度復活しなければならない時期なの
に、文字制限なんかがあって、それがうまくいかない。言
葉が少なすぎるんです。自分の気持ちを述べようとしても、
それができない。たとえば、「おもう」という言葉があり
ますが、そう読む漢字は今は「思」だけしかないんです。
この字の上半分は脳味噌の形。その下に心を書くから、千
々に思い乱れるという場合の「おもう」です。

『万葉集』では、「おもう」というときに「思」と「念」
とがあって、「念」のほうが多いんです。「念」の上の
「今」は、瓶に蓋をするかたちで、ギュッと心におもい詰
めて、深くおもい念ずるという意味の「おもう」です。

 それから「懐(壞)」という字の右半分は、上に目があっ
て、その下に涙を垂れている。下の衣は亡くなった人の襟
元です。その襟元に涙を垂らして、亡くなった人をおもう、
だから追憶とか、故人をおもう時に使う。「想」は遠く離
れた人の、姿をおもい浮かべるというときに使う字。そう
やって、みんな違うんです。それなのに、故人をおもうと
いうときでも「思」しかつかえない。「思想」とか「追懐」
とか「追憶」とかそんな言葉はあるのに、「想」「懐」
「憶」は「おもう」と読ませないのです。[1,p376]

 万葉時代の我が先人達は「子の行く末を念(おも)い、亡く
なった親を懐(おも)っいた」のに、現代日本人は「子の行く
末を思い、亡くなった親を思う」事しかできない。こう対比す
ると、文字が貧弱になれば、我々の心の働きも貧しくなってし
まう事が実感できよう。

 白川静の学問は、現代日本人の精神のあり方に重要な問題提
起を行っているのである。

■2.明治青年の気概■

 明治43(1910)年生まれの白川静は、今年95歳となった。
昭和51(1976)年、66歳で立命館大学文学部教授を定年退職
し、73歳で完全に学校の業務から解放されると、それまでの
漢字研究を集大成して、一般社会のために役立てようと、漢字
の成り立ちを説明した『字統』、日本での漢字の訓読みに関す
る『字訓』、そして漢和辞典の最高峰『字通』の3部作、合計
で200字詰め原稿用紙4万枚を、13年半かけて一人で執筆
した。毎日出版文化賞特別賞、勲二等瑞宝章、文化勲章などを
受賞し、まさに「現代日本の碩学」である。

 その学問は、どのような志から始まったのか。

 僕らが若いときには、「東洋」という言葉がだいへん魅
力的であった。西洋に対する東洋。これは古くは、幕末の
佐久間象山あたりが「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」
と言うとるんですがね。明治になって、岡倉天心の『東洋
の理想』とか『茶の本』ね。それからのちには久松真一の
『東洋的無』というのがありました。・・・だから東洋と
いうものを実体的に考えておったんですよ。ところが、い
よいよ学問をやりだした時代には、上海や満洲でごたごた
やり出して、「東洋」はずたずたになってしまい、挙げ句
の果てに国が滅びるほどの無残な負け方をした。そしてい
まはお互いにいがみ合いの状態ですわな。[1,p241]

 戦争に負けた時、ぶざまなことをして大変な負け方をし
たので、元通り仲良くするためには、ただ優しくするくら
いのことではいかんのです。日本が文化的にもしっかりし
ておって対等に付き合い、場合によっては尊敬の気持ちを
持たせるくらいにならないと、日本にはもう立つ瀬はない。
僕には、そういう気持ちも実はあった。[1,p316]

 まさに明治青年の気概である。

■3.漢字を通じて共有されていた「東洋の精神」■

 白川によれば、「東洋」という言葉は日本人の発明である。

 東洋ということばは、中国にはない。もし用いるとすれ
ば、それは日本人を賤しんでよぶときだけである。東洋と
いう語は、わが国で発明された。

 幕末に、西洋勢力が科学技術文明と武力をもって押し寄せて
きた時に、わが国で、政治的・文化的独立維持のために「東洋
道徳、西洋芸術」という考えが生まれたのである。しかし、白
川は「東洋」が単なる概念でなく、歴史的な実体を持つものと
して、実証しようとした。

 この東アジアにおいて最も特徴的なことは、漢字を共有
し、漢字文化を共有しながら、それぞれの民族が、また独
自の文化を発展させてきたという事実である。そこに共通
の価値観というべきものがあった。その価値観が東洋の精
神を生む母胎であった。[1,p9]

 かつて東洋は、一つの理念に生きた。東洋的というのは、
力よりも徳を、外よりも内を、争うことよりも和を、自然
を外的な物質と見ず、人と同じ次元の生命体として見る精
神である。思考の方向が、他の文化圏とは根本的に異なっ
ている。そしてそういう生きかたは、殊に漢字を共有する
ということによって確かめられた。漢字にはいわば、この
文化圏の最も重大な紐帯をなしている。[2,p2]

■4.「眞」という字は「行き倒れ」をあらわす■

「東洋の精神」の一例として、白川が好きだという「保眞(眞
を保つ)」という言葉をみてみよう。

 この「保眞」の「眞」という字は、本来行き倒れという
意味を持っています。上の「ヒ」みたいな字が倒れている
人の形で、その下は目がぎょろっとして頭の毛が乱れてお
る様子。人間の死の中で、一番恐ろしい霊力を持っておる
のはこの行き倒れなんです。だからいい加減には扱えんの
です。『万葉集』では柿本人麻呂が行き倒れを弔う歌をい
くつかつくっておる。・・・

 その行き倒れがなぜ永遠なるもの、真実なるものになる
かというと、それの持っている呪力というものが何世代の
のちまでその力を発揮するからです。これは永遠なる力、
永遠の存在であるというので、「眞」になるわけですな。
・・・

 つまり、「保眞」というのは、自然の力と合致すること
なんですね。眞というのは自然の生命力が永遠に貫いてお
ることです。人界では行き倒れのような形であらわれるけ
れども、永遠の生命の一つの姿として、そういうものがあ
らわれてくる。そういう力は自然とともに悠久に働いてお
るという考え方ですね。[2,p229]

 自然の力と合致し、自然の生命力とともに生きては、死んで
いく。これが、日本にも中国にも見られる「東洋の精神」の一
端であり、これを回復しようと、白川は漢字研究に志したので
ある。

■5.失われいく共通の漢字文化■

 その東洋は今や、政治的にも「いがみ合い」の状態であるが、
共通の「東洋の精神」もずたずたになっている。

 たとえば、韓国では漢字教育をやめてハングル表記になって
しまった。挨拶の「アンニョン」が「安寧」と書かれていれば、
その語感は日本人にも中国人にも直接的に伝わったはずなのに。

 ベトナムでは、フランスの植民地時代にローマ字表記となっ
たが、医者を意味する「ポシ」が「博士」の事である事をしれ
ば、すぐに理解できる。

 中国では音を中心に大胆な略字(簡体字)に改造してしまっ
た。「達」は「しんにょう」に「大」と書き換えたが、これは
現代中国語では「達」と「大」の音が同じだからである。これ
では日本人や朝鮮人には、その意味は想像もできない。

 そもそも「達」の字は「羊」を含んでおり、羊の子はするり
と生まれてくる事から、「すっと通り抜ける、何の障害もなく、
勢いよく達する」という意味を持っている。たとえば「達筆」
とはすらすらと美しい文字を書くこと、「達人」とは一般人に
は難しいことをすらすらとこなしてしまう人、というようにい
ずれも「すらすら」という語感が籠もっている。それが「大」
となっては、中国人自身にも、そんな語感は分からなくなって
しまう。

 こうして、各国が漢字を廃止したり、勝手に作り替えたりし
て、東洋の共通基盤だった漢字文化はばらばらになり、また若
い世代は漢字で書かれた古典を読めなくなってきている。

■6.世界をリードする白川の漢字研究■

 こういう状況の中で、なんとか「東洋」の復活を目指して、
白川は漢字研究の分野で孤高の歩みを続けてきた。

 中国では西周時代 (紀元前11世紀以降)の古代文字「金文」
に関して優れた研究をなしてきた陳夢家氏が文革で殺されてし
まった。その後に取り組んだ白川の4千ページもの研究書を超
える研究は今後も出ないであろう、と言われている。

 台湾では金文に関する14巻3800ページの研究叢書が刊
行されたが、そのうちの半分は白川の論文で占められている。
白川の著作の多くが訳され、また白川が国際会議で発表をする
と、特に若い研究者の間では共感する人が多いという。

 一方では、白川が台湾の雑誌に論文を発表する時に古文で書
くと、先生方は「外国人でもこういう古文を書くのに、君らは
なんだ」と学生を叱ったりした事もあったという。

 またオーストラリアやニュージーランドあたりからやってき
て、「あなたの説はよく分かる。あなたの解釈を使って学位論
文を書きたいがいいか」などと言う人も出てくるようになった。

 白川の学問は、漢字研究の分野ですでに世界をリードしてい
る。「尊敬の気持ちを持たせるくらいにならないと」という志
は、達成されているのである。

■7.日本で新しい生命を得た漢字■

 漢字というと、どうしても中国から借りてきたものという意
識があるが、日本人は借りてきた漢字をそのまま使ったのでは
ない。

 たとえば、漢字は表意文字であるから、3千数百年の間、中
国人は同じ文字をその時々の発音で読んでいた。だから「博士」
という字を、ベトナム人が「ポシ」と読もうが、日本人が「ハ
クシ」と読もうが、それは勝手なのである。

 この特徴を活用して、自国語の「おもう」に「思」の字をあ
てて「思う」と表記するという「訓読」を発明したのは、日本
人の独創であった。さらに、音を正確に表現できないという漢
字の弱点を、ひらがなやカタカナという表音文字で補完すると
いう離れ業を、我々の先人は考え出した。[a]

 それ以降、訓読法で得た知識が、和漢混淆の文章の語彙、
語法にそのまま使われるようになり、訓読によって吸収し
た中国語の表現のなかで、美しい、深いものを巧みに日本
語にとりいれている。

 このような、国語で果たすことのできない新しい造語法
として漢字を使いこなすという伝統は、江戸の末まで続い
たわけですが、それが明治期において、新しいヨーロッパ
の学問が入ってきてから、日本人は思いのままに、漢字に
よる造語がおこなわれて、このとき以降、日本人は完全に
漢字を日本語化したといえます。音と訓の両方を完全に使
いこなして、新しい語を作るようになったのも明治以降で
す。

 そして大正期に入ると、梁啓超など日本に亡命してきた
中国人学者の手で、それらの新しくつくられた言葉が中国
に逆輸入されるようになる。[1,p168]

 中国の外来語辞典を見ると「日本語」とされているものが非
常に多い。政治分野だけでも、日本語からの輸入がなければ、
現代中国では「国家」も「国民」もなく、「領土」も侵略でき
ず、「覇権」も求められず、「表決」もできなかった。中国人
が近代国際政治や民主政治を学んだのは、明治の日本人が創造
した訳語を通じてなのである。[a]

 漢字は、中国で生まれたが、日本で新しい生命を得て、新た
な成長を始めたと言える。

■8.東洋文化の最終ランナー■

 西洋文明もギリシアから始まったものが、ローマに受け継が
れ、さらにフランスやイギリスなどで発展していったものであ
る。言わば、聖火をランナーが次々と交替しながら、運んでい
るような趣がある。

 中国でも、3世紀の三国時代あたりまでは、いろいろな人種
が混じり合い、戦いながら、文化を高めていったが、それ以降
は停滞に陥る。『論語』『史記』『春秋左氏伝』『三国志』な
ど漢籍の代表的な古典はほぼ三国時代までに完成し、その後は
停滞に陥る。

 僕は日本人がその後を受け継いでよく発展させたと思い
ますね。中国的な文化を一番深く理解したのは、僕は日本
人だと思います。だから、アジア的な建築というようなも
のでも、日本においてそれが完成される。それから仏教な
んかでも、日本において非常に落ちついた個性的なものに
なる。この東洋的と言われるような精神、美、あるいは思
想というふうなもの、そういうようなものは、みな日本に
おいてその完成態をつくり上げてきているわけです。
[2,p211]

 白川の漢字研究は漢字文化の「完成態」を追求する最先端の
努力と位置づけられるだろう。

 我が国では、さらに石井式のように幼児への漢字教育を通じ
て知能や情緒を伸ばす教育方法が開発され、成果を上げている。
[b]

 中国大陸では簡体字の採用と、唯物論・拝金主義の横行によっ
て漢字文化は衰退の極みにある。また韓国・北朝鮮は漢字使用
廃止によって、すでに脱落した。そのような中で、白川静のよ
うな碩学を持つ日本こそが、東洋文化の最終リレー走者として
の使命を持つと言えよう。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(221) 漢字と格闘した古代日本人
 外来語を自在に取り込める開かれた国際派言語・日本語は漢
字との国際的格闘を通じて作られた。
b. JOG(320) 子どもを伸ばす漢字教育
 幼稚園児たちは喜んで漢字を覚え、知能指数も高まり、情操
も豊かになっていった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 白川静『回思九十年』★★、平凡社、H12
2. 白川静、渡部昇一『知の愉しみ 知の力』★★★、致知出版社、H13

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